地下鉄サリン事件|1995年3月20日地下鉄日比谷線築地駅で事件に遭遇して

人生
スポンサーリンク

こんにちは、かてぃあです。

日本中を震撼させた「地下鉄サリン事件」からもう24年もたつのですね。

私も歳を取るわけだ、とかそういうことを言いたい訳ではなくて、今ではもう事件を知らない若者も沢山いるのだな、とふと思いました。

日本であんなテロ事件が起こるなんて、おそらく、誰も思ってもみなかったと思います。日本の安全神話が揺らいだ出来事でした。

スポンサーリンク

1995年3月20日月曜日|いつものように出勤した

1995年3月20日、その日も、いつもとかわらない週の始まりの日でした。

当時私は、片道約2時間もかけて、神奈川県内の実家から築地にある会社に通勤していました。ただでさえ長い通勤時間は苦痛ですが、月曜日の朝は特に会社に行きたくないモード全開で、どんよりした気持ちで電車に揺られていました。

半蔵門線→銀座線→日比谷線と乗り換え、会社のある築地駅に到着です。

最近は築地駅で降りたことがないのでどうなっているのかわかりませんが、当時、北千住方面のホームから築地卸売市場や、築地本願寺の方に出るには、地下をくぐって、反対側の霞が関行のホームに上がって、進行方向に向かいホームの端から端まで歩く感じで、前方の改札口から出なければなりませんでした。

その日も地下道を歩き、反対側ホームに上がると、霞が関方面の電車が停車しており、何やらアナウンスが流れ、ホームがワサワサしていました。

どうやら、故障か事故のようです。3月は、終わりに近づくと人身事故が増えるというので、もしや人身事故でもあったのかな、などと思いました。

しかし、アナウンスをよく聞いていると、「爆発があって有毒ガスが発生したと思われ・・・」のような内容でした。

そのとき、止まっている車両の、進行方向に向かって後方の車両には、まだ、発車を待って、社内で普通に本や新聞を読んでいる人が沢山いました。しかし、車両の前方に行くにつれ、様子が変なのです。ホームに降りて、壁に寄りかかってしゃがみこんでうずくまっている人がいたりします。

何かおかしいと思い、改札口をめざしていると、確か前から2両目の車両だったと思いますが、空っぽだと思って何気なくのぞいた車両の床を見て、「えっ!?」と思わず凍りつきました。

そのとき、何かを思ったのですが、怖くなって、小走りで改札を出て、そのまま、走ってオフィスへ向かいました。

さっき見た光景が頭から離れませんでした。

地下鉄にサリンがまかれたことを知る

金融機関の朝は早いので、多くの社員はすでに出社していました。

築地駅で何か爆発があったみたいだね、などと話していましたが、始業時間を過ぎても、出社していない社員がいて、誰も連絡を受けておらず、“爆発事故”に巻き込まれたのかとみんなで心配しました。

当時はスマホどころかインターネットなんてありませんから、何が起きているのか全くわかりません。みんな落ち着かず、そのうち、一人二人とカフェテリアに行ってしまい、仕事どころではありません。仕事が手につかないから、カフェテリアでお茶をしようと言うわけではなく、皆の目的は、そこに置いてあるテレビで情報収集することです。

私もカフェテリアに行くと、何台かあるテレビの前には、色んな部署の人たちが群がり、食い入るように画面を見つめていました。

しばらくすると、課長が来て、「今、会社で情報収集中なので、とにかく席に戻れ」と、他部署の人も含め、一旦、自分の席にもどるよう指示がありました。

そして、席に戻ると、直属の上司から、念のため、家族が心配しないよう、連絡しておくように言われ、会社の電話をつかって、各自、家族に電話をしました。

その年、1995年1月には阪神淡路大震災がありました。関西に本社のあったその会社には、関西出身者も多く、地震発生直後、家族親戚と連絡がつかない、と社内が少しパニックになった記憶も新しかったので、築地駅で何かあったらしいというテレビニュースを見て、家族が心配しているといけないので、という配慮だったのでしょう。

時間が経つにつれて、築地上空を飛び回るヘリコプターの数が増え、騒々しくなり、錯綜していた情報も、徐々にはっきりしていきました。いくつかの地下鉄の車両でサリンがまかれたというのです。私は見ていませんが、テレビのどのチャンネルでも、ワイドショーでは専門家が登場し大騒ぎをしていたことでしょう。

一方、社内では、社員が集められ、収集された情報が社員にシェアされました。その後、私ともう一人の社員が課長に呼ばれました。私たち二人は、朝、築地駅で、サリン電車が止まっているときにホームにいて、サリンを吸ってしまったかも、大丈夫かな?みたいなことを、みんなと話していたのを課長が聞いていたのです。

課長は、「出社していない社員は事件に巻き込まれたと思われ、聖路加国際病院に搬送されているかもしれないから確認してきてほしい。ついでに、君たちも、サリンを吸って心配だったら、病院で話を聞いてこい」と言うのです。

朝から、体調的には何でもありませんでしたが、ホームを歩いていたときに見た車両の中の光景は頭から離れず、また、それが“サリン”によるものだと知ったら、急に息苦しくなって、気分が悪くなってきました。

聖路加国際病院に同僚を探しにいったら

聖路加国際病院は、日比谷線築地駅と有楽町線新富町駅の間ぐらいにあり、オフィスからもすぐの距離にありました。もう一人の社員と一緒に、会社のビルから外に出ると、なんだか思いきり深呼吸して、聖路加国際病院に向かって無言で歩きました。

病院に着くと、そこはもう“野戦病院”状態でした。

広いロビーにも、廊下にも、もう、これ以上隙間がないくらい人が寝かされており、その間を看護師さんが点滴のパックを持って走り回っているのです。

よくわからないけど、ドキドキして、たちどまり、一緒にいた社員と顔を見合わせ、中に入るかどうか一瞬ちゅうちょしました。

そして、意を決して中に。でも、どこに行って、どうやって、同僚がいるかどうかを確かめたら良いのやら、見当もつきませんでした。

とりあえず、職員をつかまえようと、ロビーで寝かされている患者さんの間をすり抜けながら奥へ。廊下に差し掛かったあたりで、前方からきた看護師さんに恐る恐る声をかけてみます。

「会社の同僚がいるかどうか調べにきたこと」と、「自分たちがサリンを吸ってしまったかもしれないのでどうしたらいいか」と聞くと、その看護師さんは少しイライラしながらも丁寧に「今は、どこのだれがここに搬送されたかの把握ができておらず、見てわかる通り混乱しているので、特に具合が悪くないようだったら、今は出て行ってください」と言われました。

自分たちも、その光景を見て、99%、今そこで同僚を見つけ出すのは無理だと思っていたし、ロビーと廊下がそんな状態と言うことは、きっと空いてる病室なんかないくらい被害者でいっぱいなのだろうということは理解していました。だから、素直に帰ることにしました。

ただ、もう一つの心配事についても聞かないと落ち着きません。

すると、サリンを吸ったかもしれないことについては、「もし、このあと、気分が悪くなったり、身体的な症状がでたら、最寄りの病院でいいので受診してください。その際サリンをすったことを伝えてください」と言われ、更に、「着ていた服は、家に帰ったら全て焼却してください」と言われました。確か、廊下の端においてあったテーブルの上の紙に、念のため住所と名前を書かされたと記憶しています。

24年たっても事件は終わっていない

翌日、サリン事件当日に行方のわからなかった社員全員の安否確認ができました。みんな、聖路加国際病院に搬送され、1日~1週間ぐらいの入院でした。

同じ課の女性社員は、退院後も地下鉄に乗るのが怖いと行って、しばらくは親御さんに会社まで車で送迎してもらっていました。彼女は、事件後、たびたび、「今、電気ついてますか?」と聞くのです。彼女曰く、いつも視界が暗いのだとか。サリンの後遺症なのでしょう。

サリン事件で、一命は取り留めたものの、失明したり、言語に障害が残ったり、身体が麻痺して動けなくなったりと、24年たった今でも苦しんでいる被害者の方が沢山いらっしゃいます。そういう話を聞くと胸が痛みます。

視界がいつも暗いと言っていた彼女は症状が軽くてよかったとか、自分はなんでもなくてよかったなどというつもりはありません。

みんな、あの事件で傷ついているのです。

あの日、サリンがまかれた車両をのぞいたときに、一瞬脳裏に浮かんだものがあります。それは、昔、スペインのプラド美術館で見た、ピカソの絵画「ゲルニカ」です。(※ゲルニカは1992年より国立ソフィア王妃芸術センターで展示されています)

「ゲルニカ」は、スペイン内戦中の1937年に描かれた絵画で、ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている絵です。その絵の中には、子供を失って泣き叫ぶ母親や、天を仰いで神の救いを求める者、瀕死の馬などが描かれまさに地獄絵図です。絵の中の人や動物の舌が鋭く尖って突き出ている様子は、恐怖と苦しみを感じます。 

地下鉄サリン事件は、オウム真理教と言う宗教団体がおこした、日本における史上最悪のテロ事件です。戦争を描いたゲルニカとは全く背景は違いますが、何の罪もない、普通に生活している人たちを攻撃したことは戦争と同じです。

いつものように通勤のため、いつもの時間に、いつもの電車の、いつもの車両に乗ったら、意味も分からず、命や自由や未来を奪われてしまった。そんな理不尽なことが許されてよいのでしょうか?

2018年7月、オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)他12名の死刑が執行されました。地下鉄サリン事件の真実も、これで永遠にわからなくなってしまいました。

24年前の今日、地下鉄サリン事件で亡くなられた13名の方のご冥福をお祈りします。

コメント